★ 本記事の写真はすべて新美南吉記念館のご厚意によりご提供いただきました。
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やはり、ストーリィには、悲哀がなくてはならない。悲哀は愛に変る。(中略)俺は、悲哀、即ち愛を含めるストーリィをかこう。
新美南吉日記より
1929年4月6日の日記にこう綴ったのは、29歳の若さでこの世を去ってしまった、愛知県半田出身の児童文学作家・新美南吉です。
新美南吉の生家
南吉は1913年に当時の半田町で生まれ、本名は新美正八です。4歳の時に母親を病気で亡くしてしまい、6歳の時に継母を迎えました。8歳の時に母親の実家・新美家の養子となり、おばあさんとの二人暮らしが始まったものの、寂しさに耐えきれず、わずか数ヶ月で父親の家に戻ってきてしまいました。孤独な幼少期を過ごすことを余儀なくされた南吉ですが、学校ではずっと成績優秀でした。中学2年生の頃から童謡を作り始め、16歳からペンネームの新美南吉を使い始めました。
南吉生家近くの常夜燈
17歳から小学校の代用教員を勤める傍ら、童謡や童話の執筆を続け、作品が児童雑誌の『赤い鳥』に掲載されるようになりました。18歳で東京外国語学校英語部文科に入学した南吉は、北原白秋や巽聖歌、与田凖一などの優れた詩人との出会いに恵まれ、童謡や童話を次々に生み出していきました。22歳で東京外国語学校を卒業しましたが、体が弱く、病気に倒れて寝込んでしまうことがしばしばありました。その後、故郷に戻り、小学校の代用教員や杉治商会鴉根山畜禽研究所、安城高等女学校教員などを歴任しましたが、1943年3月に喉頭結核でなくなりました。
代表作「ごんぎつね」の舞台となった矢勝川
南吉が出版を待ち侘びていた童話集の『牛をつないだ椿の木』と『花のき村と盗人たち』は、南吉の没後に発行されました。南吉はその短い生涯の中で、1500を超える童話、小説、童謡、詩など多岐にわたる作品を後世に残しました。冒頭の哲理に富んだ南吉の言葉がその作品に端的に現れています。地元の知多半島を舞台に、当時の庶民の生活や身近な動物たちを物語に描きました。悲しさの中に優しさや強さが織り込まれた数々の話は、南吉の生涯の映写のようでありながら、読む人の心を惹きつけ、どんな状況に置かれても逞しく生きる勇気を与えてくれる、不思議な力を持っています。
「ごんぎつね」ゆかりの権現山
戦後、南吉の業績を讃えるために、そのゆかりの地で南吉の作品を愛する人々によって詩碑が建てられ、1980年から83年にかけて『校定新美南吉全集』が出版されました。更に1994年に南吉のふるさと・岩滑に新美南吉記念館が建設され、南吉が残した貴重な資料の整理や保存など大切な役割を担っています。新美南吉記念館は、周囲の自然との調和を実現すべく、半地下式の独特な設計が採用されています。波打つ屋根は芝生で覆われ、流れるように、隣接する「童話の森」の風景に溶け込んでいきます。来客が南吉の世界に存分に浸れるように、館内には、展示室、図書室、カフェ及びショップなどの施設がそろっています。
童話「狐」などに登場する岩滑八幡社
南吉の代表作の「ごんぎつね」は1956年から小学校4年生の国語の教科書に載り、世代を超えて全国の小さな読者たちに親しまれてきました。オリジナルの童話創作を奨励する目的で、新美南吉童話賞というコンクールも毎年実施されています。宮沢賢治と並んで「日本児童文学界の双璧」と評されている新美南吉の文学は、先行きが不透明なこのご時世だからこそ、触れてみる価値があるのではないでしょうか。
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